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御朱印散歩 東京編 増上寺へ 田町駅発~国会議事堂ルート②

御朱印散歩 東京編 田町駅~国会議事堂ルート① から続きます。

増上寺御朱印目指して

東京タワーと徳川将軍家菩提寺増上寺

東照宮を後にし、すぐ隣の見通しの良い公園へ。両脇に神社仏閣、背景に東京タワーがそびえたつ広い公園には小学生たちが遠足に来ていました。売店やお手洗いも完備されています。

昭和の高度成長期を象徴する東京タワーも本来の役割を東京スカイツリーにバトンタッチしましたが、その雄姿は今も健在です。これもまた時代の変遷を物語る偉大なモニュメントです。

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東京タワー

公園を過ぎると増上寺です。家康が江戸に拠点を置く際、菩提寺に選んだのが増上寺だそうです。家、城、地域の守護に寺社や神社の存在がなくてはならない時代。どんなに有能な武将も道に迷い、葛藤し、教えを請い、人知を超えた力の存在を怖れ、あるいは拠りどころとしていたのでしょうか。徳川将軍家の篤い庇護を得て江戸期の増上寺は隆盛を極めたようです。

古地図アプリを見ると増上寺とそれに関する施設(学寮など)の占める範囲は広大で、江戸名所図会には増上寺の寺領内部の建物配置が詳細に描かれ、広重の錦絵にはその周辺の賑わいが生き生きと描かれています。 浄土宗の大寺院として檀林がおかれ、最盛期にはなんと3000人以上の学僧がいたそうです。

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芝神明増上寺全図 / 広重

明治になって神仏分離令廃仏毀釈の影響を受け、まさかの放火に会うなどとは江戸期の人たちは想像だにしなかったでしょう。

三解脱門をくぐると正面に大殿があります。ご本尊は室町期の阿弥陀如来像です。由緒によると、三門をくぐり煩悩を解脱してご本尊のいる大殿、西方極楽浄土に至る世界を視覚的に表現しているとあります。どっしりとした景観を誇る大殿は広々としてしていて、地上3階、地下一階の構造になっており、多くの信徒や参拝客を受け入れることが出来る施設になっているようです。          

                 

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増上寺大殿

隣は安国殿です。この安国殿は戦争で焼失した大殿を再建するまでの仮本堂であったものを本殿完成後北側に移築し、その後立て直されたものだそうです。もともとの安国殿は先ほど参拝した東照宮として分離されたので、こちらの建物を新たに御堂安国殿としたそうです。本尊は秘仏黒本尊。家康が崇拝したこの像は恵心僧都作と伝えられ、勝運、災難除けの仏様だそうです。香煙や人々の悪事災難を受け止めて黒ずんだという黒本尊は家康のが命名したもの、と由緒にあります。家康の祈りが込められた像に敬意を表して参拝し、堂内の社務所御朱印を頂きました。

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増上寺御朱印

増上寺は見所がたくさんありますが、やはり徳川家の菩提寺であることから墓所の見学は必須です。靖国殿の裏側に回ると一面の葵のご紋と両脇の龍の彫り物が見事な鋳抜門に圧倒されます。拝観料を払って門の脇から中に入ると徳川家の将軍や正室・側室の宝塔が並んでいます。もともとは大殿の両側に国宝として霊廟が立ち並んでおり、戦火で焼失後荒廃していたものを発掘調査してここに改葬されたとあります。本来の姿はどのようなものだったのか、焼失してしまったことは残念でなりません。

幕末、公武合体によって徳川に嫁いできた皇女和宮もここに眠っています。16歳で家茂に嫁ぎ、たった4年余りの結婚生活。家茂の没後出家し、徳川家支配の終焉、明治維新と以後の混とんとした激動の11年余りを過ごし、32歳という若さで亡くなった和宮が、家茂と同じ墓所に眠ることを選んだ心情は計り知れません。

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増上寺鋳抜門

増上寺の境内を散策し、寺の裏側から外に出ると薔薇の咲く高台の公園に抜けられます。空を見上げれば大都会の東京タワー。下方に目を移せば先ほど通った広々とした公園があります。公園と増上寺の間には広くて新しい階段があり、ここを下りると東照宮から増上寺に向かって歩いた先ほどの道に出ました。

御朱印散歩 東京編 田町駅発~国会議事堂ルート③ へ続きます。