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御朱印散歩 千葉編 松戸神社と松戸宿

梅雨に入りましたね。

曇天のなか、用があって松戸に行ってきました。

昼過ぎに用事が済み、昼食を先に済ませてから松戸神社の御朱印を頂きに行くことにしました。

目次

松戸に来たらラーメンとみ田ですが…

松戸宿

松戸神社

松戸に来たらラーメンとみ田ですが…

一度行ってみたかったラーメンとみ田。

噂によると3時間待ちが普通らしく、本日は無理。迷わず姉妹店の富田食堂へ。同じ濃厚つけ麺が食べられるそうです。駅東口下りてイトーヨーカドーの1本前の道を右に入ると道路の左側に大きな富田食堂の看板が見えます。

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富田食堂

3人ほど並んでいて、すぐ入れました。食券機の前で悩んでいたら、ゆ~っくり考えていいですよ~。と後ろのお客さんが言ってくださいました。おすすめメニューも教えてくれました。濃厚つけ麺がありましたが、う~ん…オバさんは軽めにつけざるにしました。軽いはずが…思いのほか麺の量が多い。スープはコクがありながらもサッパリしてました。(完食)(笑)

松戸宿

さて、駅に戻り今度は反対側の西口に出ます。西口駅前はバスのロータリー。駅から真っすぐの道を松戸市民劇場方面へ。最初の信号を左に曲がり、左右に「松戸宿」の提灯が並ぶ道を進みます。

松戸宿は水戸街道の3番目の宿。日本橋から千住までは日光街道と同じルートで、千住宿水戸街道の起点とするそうです。

沿道には古い日本家屋で商売を続けている店もちらほら。ちょっと路地を入るとテレビで紹介された昭和の面影をのこすお豆腐屋さんもあります。寺院の数も多くかつて宿場町として栄えた痕跡が残ります。

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松戸宿の街並み

道沿いの寺院の参道におもむろに「千葉周作修行の地」の標柱が。周作一家は岩手から松戸宿に転居し、周作はこのあたりの剣術の道場に入門したと説明書きにあります。この柱は取り壊した松戸本陣の家屋に使われていたと説明書きにありました。

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千葉周作修行の地

そのまま進むと小さな川が。坂川というそうですが、その前の集合住宅の生垣に案内図がありました。松戸宿と水路の様子が書かれています。

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松戸宿と水路

この坂川に架かる春雨橋をすぎるとほどなく左手に松戸神社の鳥居が見えてきます。参詣の前に、水戸街道の2番目の宿、新宿と松戸宿をつなぐ渡船場を確認します。次の信号を右に。すぐに江戸川の土手が見えてきます。google map先生によるとこのあたりの江戸川の河川敷に「下横町渡船場跡」のマークがありますが、土手から見える広い河川敷には足を踏み入れる道もなく遠くからそこらへん?を望むのみでした。川の対岸には金町が見えます。そこに金町松戸関所の碑があるようです。

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下横町渡船場跡?

この土手を河口に向かって3キロほどいくと現役の渡船場矢切の渡しがあります。渡し船に乗ると金町の柴又帝釈天がすぐ近くです。今日のところはここで来た道を戻ります。土手を下りて先ほどの信号を渡り、来た道の反対側の歩道を松戸神社方面へもどるとほどなく松戸本陣跡の碑が集合住宅の脇にありました。船を降りた要人たちはここに宿泊したのですね。

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松戸本陣跡

松戸神社

信号を左に曲がり、先ほど通り過ぎた松戸神社の鳥居をくぐります。

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松戸神社鳥居

参道を進み、先ほど渡った小さな川、坂川にふたたび出会います。赤い橋を渡ると境内です。

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坂川に架かる赤い橋と松戸神社本殿

雨が降ったりやんだりですが、お宮参りの人たちや交通安全祈願の人々、近所の人の往来もあり、いかにも地元の鎮守様、といった様子です。

ご祭神は日本武尊。1626年創建(創設時は御嶽大権現と称した)とありますから、江戸時代の街道整備が進む中、水戸藩にとって重要な水戸街道の宿場町の鎮守として大事にされたのではないでしょうか。水戸光圀公の逸話もあるようです。

境内には本殿松戸神社、末社秋葉神社(祭神:火之迦具土大神)、神楽殿の三つの拝殿があります。

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松戸神社本殿

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秋葉神社

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楽殿

本殿の向かい側には龍神さまのご神水があり、タンクを持ってお水を汲みに来ている参拝者の方がいました。霊験あらたかな100%の天然水だそうです。ここの百度石はカウンターがついているのですね。

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龍神さまと百度

本殿右側に社務所があり、御朱印を頂きました。

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松戸神社御朱印

帰りは坂川の手前を川に沿って歩き、旧伊勢丹(現:KITE MITE MATSUDO)の前を通り駅に向かいました。

松戸駅に来たのは久しぶりでした。同じ常磐線沿線の柏駅周辺が再開発で新しくなり、東口には大規模電気店、西口には高級ブランド店が入る高島屋の新館もできて周辺の買い物客が集まりやすくなっているのに対し、松戸は大規模再開発とは無縁で大きく変化することはありませんでした。

千葉県人口第3位を誇る松戸市(平成30年度データ)。松戸宿についてはあまり知りませんでしたが、今回ほんの少しその跡をたどっただけで新たな魅力を感じることが出来ました。単に東京に近いベッドタウンとしてだけでなく、こうした歴史的背景をもっとアピールしてほかの都市にはないような街づくりをすれば面白そうなのに、などと余計なことを思いながら帰途につきました。

映画ノート 「長いお別れ」

中野量太監督「長いお別れ」

きのう朝の情報番組を見ていて思わずえ~‼と声をあげてしまった蒼井優ちゃんと山ちゃんの結婚。だからというわけではないですが、その蒼井優ちゃんの主演作を見に行きました。

6月最初の映画鑑賞。あ、そういえば6月からTOHOシネマズの料金が値上がりしましたね。今日はラッキーにも6ポイントの無料鑑賞券を利用しました。

映画館は平日の昼間のせいか中高年の割合がめっちゃ高かったですがほぼ満員、90%くらい入っていたのではないでしょうか。

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あらすじ

父の70歳の誕生日。久しぶりに帰省した娘たちに母から告げられたのは、厳格な父が認知症になったという事実だった。 それぞれの人生の岐路に立たされている姉妹は、思いもよらない出来事の連続に驚きながらも、変わらない父の愛情に気付き前に進んでいく。 ゆっくり記憶を失っていく父との7年間の末に、家族が選んだ新しい未来とは――。(「長いお別れ」公式ホームページ Story)

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感想

原作未読です。

「長いお別れ」。タイトル自体が状況を端的に表しています。テーマがテーマですから、中高年には見たいような見たくないような…

会場にいた多くの人が自分の体験と重ね合わせたことと思います。

認知症が進むにつれ現れる症状のあるある。

周りの家族のそれぞれの事情と介護生活のあるある。

実際は精神的にも体力的にも追い込まれる介護生活をあえてそこまで生々しく描かない。阻喪する場面もさらりと描く。

すこしずつ進む認知症によって引き起こされるハプニングと少しずつ変化する家族それぞれの人生の起伏が交差して話が静かに展開していきます。

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フォーカスしているのは「苦しみ」ではなく誰もが通るであろう「日常」。実際はこんなにやさしく穏やかな展開ばかりではないだろうと思います。現実に介護に直面している者はホントに余裕がない。でももしこの映画のように、実際には笑えない状況も笑って受け止めることが出来れば幸福です。メリーゴーランドのシーンはひとつの山場ですが、屈託ないお父さんの姿を皆がおおらかに見守る姿は、家族の歴史への慈しみに満ちていて切ないながらもじんわりと温かい。

ファンタジーかもしれないけれど、映画には必須の現実と非現実のあいだに存在する物語の世界観がきちんと成立していました。

キャストが素晴らしかったです。山崎勉さん、すごいです。ホンモノみたいでした。蒼井優ちゃんの力まない存在感も光ってました。二人の縁側で話すシーンはみどころです。噛み合っているのかいないのか、微妙なやり取りの中でお互いの心の琴線がちゃんと通じ合っているのが伝わって来てウルウルします。竹内結子さんの、苦しい状況にありながらも真っ正直な行動がどこかユーモラスでクスリとさせられます。飄々とした松原千恵子さんがしっかり物語の要を押さえ、全編にほんわりとした明るさを与えていました。

☆3.5

 

 

御朱印ブームは現代のおかげ参り?

初めに

平成と令和の切り替え時には記念の御朱印を求めて神社仏閣に多くの参拝客が列をなしたそうです。その御朱印がさっそくネットオークションに出品されているという事実が驚きをもって伝えられました。ネット販売は以前から話題になることがありましたが、ではそもそもなぜ御朱印を集めるのでしょうか。

この御朱印ブームはどうして起きたのでしょう。観光でその地の神社仏閣を訪れるのはよくあることですが、御朱印に特化して神社仏閣を訪れるのはまた違う意味があるのでしょうか。江戸時代に爆発的に流行ったという「おかげ参り」は御朱印目的ではないけれど、私たちが神社仏閣を訪れる根底にある意識には通じるものがあるのではないかと感じ、考察してみました。

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目次                

御朱印を集めるってどういう気持ち?

御朱印のもともとの意味

「巡る」と「集める」

おかげ参り

御朱印集めとおかげ参りの共通点

 

 御朱印を集めるってどういう気持ち?

御朱印を集めている一人として、自分を振り返ってみます。

私が初めて御朱印を頂いたのは2014年6月。その少し前に夕方のテレビのニュースで御朱印の特集を見たのを覚えていて、せっかく鎌倉に来たのだから頂いてみよう、という軽い気持ちでした。

訪れた寺院で御朱印を頼むと、袈裟を来たお寺の方が墨で丁寧にご本尊や寺社の名称、日付を書いてくださり、「ようこそお参りくださいました」と渡してくださいました。その時、お守りやお札を買うのとは違いその御朱印は自分一人のための特別なもの、という感覚を抱きました。たくさんの参拝者の中の一人にすぎなかった自分とその寺院が個別のつながりを得たようで今までにない親しみを感じたのです。もちろん、煩悩のカタマリですからご利益も勘案し、ありがたさ倍増でした。そして何よりもよい記念になりました。それ以来神社仏閣に行く際は必ず御朱印を頂いています。

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御朱印のもともとの意味

すでにご存じのこととは思いますが、復習です。

御朱印とは寺院を訪れて写経をした参拝者が奉納した証として授けられたものだそうです。納経印、納経帳という呼び名もあるそうです。近世以降に社寺参詣と観光が一体化し、納経しなくても参拝すれば御朱印が頂けるようになり、明治以降は神社でも授与されるようになったとあります。

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御朱印、と聞いて最初に思い浮かべたのは「御朱印状」「御朱印船」でした。中世、サインとしての花押に代わり、朱色の印が公的文書に使われるようになり、総じて公的書状が御朱印状と呼ばれたようです。江戸時代に寺社に対して御朱印状が下付されるとその領地の領有権を確保でき、年貢諸役を免除されたとあります。寺社が授与する御朱印とは異なりますが、御朱印という言葉の持つ正式なもの、ありがたいもの、というニュアンスはそんなところからも来ているようです。

「巡る」と「集める」

御朱印集めで最初に思い浮かぶのは「お遍路さん」です。イメージでは白い装束と傘をかぶり、四国88か所の霊場を巡る厳しい修行のような印象がありましたが、今や若い人達もカジュアルに参加するひとつの旅のスタイルとしてポピュラーになっているようです。各地の霊場七福神をめぐり、目的の御朱印をすべて集めて結願し、達成感を得る旅は観光地を巡る旅とは一味違った面白さがあるのかもしれません。 

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こうした巡礼に対して、一念発起するため、あるいは癒しを求めるためにここぞと決めてパワースポットに訪れて参拝し御朱印を頂くという一点集中型も充足感を感じることができると思います。

「季節限定」「イベント限定」の御朱印ももちろん魅力的です。元号切り替え時に記念の御朱印を求めて大行列がおきるのもわかる気がします。朝早くに参拝し、長い行列に耐え、それを修行と思えばやっと手に入った御朱印のありがたみは大きいと思います。

お陰参り

こうした御朱印は集客にも一役買っていることは明らかです。参拝客や信者、檀家を集め、布施や寄進を受けるのは神社仏閣の生命線です。そして信者を集める大規模な組織を持っていたのが伊勢神宮です。

お伊勢様の「神宮の歴史・文化」を見ると、皇祖神天照大御神をお祀りし平安時代新嘗祭にはすでに数多くの参向者がいたとにあります。伊勢信仰が全国に広がまったのは御師(おんし)と呼ばれる人々の存在です。全国に担当の地区を設け、檀家をもって願い事を神様に取り次ぐ役割を持ち、神札を領付、檀家のお伊勢参りの際は案内役もしたそうです。御師は営業であり旅行エージェントでもあったのです。

このお伊勢参りが爆発的に流行したのがおかげ参りです。伊勢の遷宮に合わせて60年ごとにおきる大規模な伊勢詣で。全国から数百万人の参拝客が集まったそうです。当時の農民や奉公人は勝手に旅など許されるわけもないのですが、お陰参りでは着の身着のままでお参りの集団に参加する人々も多く、周辺の富豪たちは金品の寄付を行ったといいます。現代のお遍路さんをサポートする風習にも通じます。お伊勢講といわれる伊勢参りのための積み立て制度などもあったようです。

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御朱印集めとおかげ参りの共通点

集団で行動したおかげ参りの原動力は閉塞感から抜け出すことにあったのではないでしょうか。土地に縛り付けられた農民や奉公人の移動は制限され、通行手形を得ることは難しかったといわれています。地域にはインフラの一環として神社仏閣が必ず存在し、その信仰の総本山であるお伊勢様への参拝はほぼ無条件で許可されたといいます。多くの人が無断で家を出てお参りの集団に加わり(抜け参り)、資金のサポートもあって、一大イベントになったのでしょう。抑圧から脱出することは普段は許されない行為でありながら、伊勢参りだけは社会に容認され、参加者は自己肯定感を持ちながらお伊勢様への神頼みをエンターテインメントとして楽しむことができたと思われます。

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一方、個人個人がそれぞれに目的をもって御朱印集めをするのが現代です。しかし、根底はおかげ参りの時代と変わっていないのではないでしょうか。ひきこもりの問題も深刻ですが、現代人は社会への漠然とした不安から逃れるように個の内側に向かうツールがたくさんあり、それが閉塞感をもたらしているように思います。現代の情報量はおかげ参りの時代とは比べものにならないほど多いにもかかわらず、多種多様な選択肢の中で御朱印集めを志向する人のなんと多いことか。ままならぬ現状の打破と神頼み。これをエンターテインメントとして楽しもうというのが御朱印集めではないでしょうか。

1868年のええじゃないか騒動以降、目立って参拝ブームは起きませんでしたが、御師ならぬメディアの援護もあって御朱印集めは周知されじわじわと浸透し続け、一つのカルチャーとして定着したように思います。お守りやお札と違って一枚一枚書かれる特別な個人のための御朱印。個の時代におけるおかげ参りの形ではないかと思います。

 

「全国御朱印図鑑」八木透監修

日本歴史大辞典

伊勢神宮ホームページ

おかげ横丁ホームページ

を参考にしました。

 

令和元年6月4日

 

御朱印散歩 東京編 虎の門金刀比羅宮へ 田町駅発~国会議事堂ルート⑤

御朱印散歩 東京編 田町駅発~国会議事堂ルート④ から続きます。

金刀比羅宮御朱印目指して

虎の門金刀比羅宮

既に時間は12時半。出世の石段は男坂というのだそうですが、帰路は池の脇にあるなだらかな女坂を下ります。次なる目的地は虎の門金刀比羅宮愛宕神社からは10分程度です。

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再び赤い大鳥居をくぐり左手へ。愛宕一丁目の交差点を左折して桜田通りを地下鉄虎ノ門駅方面へ。虎の門1丁目の交差点を過ぎると左手に琴平タワーがあります。その奥に金刀比羅宮がありました。桜田通りに面した入り口に鳥居があり、ビルに沿って屋根に覆われた参道があります。参道に面したビルの中にはカフェ、カフェの窓際にベンチが並び参道脇にもベンチがあります。昼休み休憩で多くの人たちが座って談笑したりランチを食べたり本を読んだりしています。

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金刀比羅宮参道

参道を抜けると左手に銅の鳥居、鳥居をくぐった先に本殿があります。ご祭神は大物主神。相殿に崇徳天皇を祀っているそうです。讃岐丸亀藩の藩主京極高和が金刀比羅宮の本宮の分霊を江戸の三田藩邸に祀り、その後1679年にこの地虎の門遷座したそうです。海上守護、五穀豊穣などの神として広く信仰されていたそうです。香川県の金毘羅さんにもいつか行ってみたいです。

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銅鳥居越しの本殿

銅鳥居も貴重なものだそうですが、その近くにある立派な百度石の碑に驚きます。芝大明神にも百度石はありましたが、お百度参りがあちこちで行われていた事実を今更のように実感しました。本殿に参拝して左方向の社務所御朱印を頂きました。

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金刀比羅宮百度

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金刀比羅宮御朱印

現代の政治の中心地を通ってゴール黒澤へ

さてここからゴールの黒澤までは16分。金刀比羅宮の裏鳥居を出て左に進み、最初の交差点を右折し特許庁前の交差点方向に進みます。特許庁前交差点を右折し、内閣府下交差点方面へ。交差点をさらに進んで緩やかな坂道を上るといよいよ現代の政治の中心地、総理官邸と国会議事堂が近づいてきます。

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官邸の敷地脇には沿革と江戸期の地図が書かれた案内板があります。関東大震災の復興計画の一環でこの地に総理官邸が建設された、とあります。1929年に旧官邸が完成。国会議事堂にいたっては着工から17年を経て1939年に竣工したとあります。

明治維新から70年、議会政治がその舞台の形を整えるまで長い年月がかかりました。

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総理官邸沿革

官邸の入口付近は警備車両が並び、警察官が並んでいます。官邸前交差点を過ぎ、衆議院会館前の交差点まで来ると右側に国会議事堂が見えます。こちら側は裏になり、木々があってその全容は見えづらいです。

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国会議事堂

このあたりは江戸城に近く、大名屋敷、旗本屋敷がたち並ぶ地域だったようです。国会議事堂正門側、憲政会館のあたりに井伊直弼の屋敷がありました。その先内堀通りを行けばすぐに桜田門です。井伊直弼を襲った水戸藩士は先ほどの愛宕神社に集結し、桜田通りから一直線に桜田門に向かったのでしょうか。

ここから山王坂を下ります。長い坂なので登りは結構きついですが、今日は下りなので楽々です。衆議院会館の建物をすぎ、直進すれば日枝神社ですがまた別ルートで訪れたいところなので、本日は手前の信号を左折し、黒澤へ。13時30分。予定より少し遅れましたが無事に到着しました。

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永田町黒澤

黒澤は黒澤映画をイメージでした内外装を施した古民家の蕎麦屋で、雰囲気も立地も良く、ビジネスランチにもおもてなしにもよさそうなお店です。お昼の蕎麦セットはCPもよく、1000円で小鉢、蕎麦、丼もの、デザートがついています。蕎麦はコシがあり、黒豚の丼ものもとてもおいしかったです!歩いて空腹だったのでぺろりと完食しました。3時間半の散歩のゴールに最高のご褒美でした。

黒澤のすぐ近くの地下鉄千代田線国会議事堂駅で今回のコースは終了です。江戸開城の地から現代の政治の中心地まで3時間半。要所要所にある神社仏閣は時の権力者や時代の変化に影響を受けながらもその土地でずっと地域や人々を見守ってきたことを改めて実感できる散歩でした。

コース復習

JR田町駅江戸開城の碑→東京港醸造→薩摩三田藩邸跡→芝園橋→芝東照宮→東京タワー外観→増上寺芝大門→芝大神宮→青松寺→愛宕神社首相官邸前→国会議事堂前→黒澤→地下鉄国会議事堂前駅

令和元年5月15日

 

 

御朱印散歩 東京編 愛宕神社へ 田町駅発~国会議事堂ルート④

御朱印散歩 東京編 田町駅発~国会議事堂ルート③ から続きます。

愛宕神社御朱印めざして

青松寺、愛宕神社

すこしお腹がすいてきたなあ、と思ったらすでに12時を回っていました。ゆっくり回りすぎたでしょうか。芝大神宮から次は出世の石段で有名な愛宕神社に向かいます。google先生によるとここから約1.2km、徒歩16分とあります。

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芝大神宮の鳥居を出て左方向に進みます。この路地には昭和時代の建築と思われる古びた家が散見されます。こういう風景に少しほっとします。コンクリートの路面とビルの中に昭和の風景を想像しながら進みます。交差点を左に曲がり、突き当りを右方向へ、愛宕警察署方面へ向かいます。愛宕警察署前の交差点を左へ。本当は御成門にも寄りたいところですが先へ進み御成門中学校、小学校をすぎて西新橋3丁目の交差点へ。歩道橋でMORIタワーがそびえるエントランスホール側に渡ります。ここまでただひたすら歩いて12分。愛宕神社はすぐそこですが…

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MORIタワーエントランス前を過ぎると静かに青松寺の門が現れます。タワービルとビジネス街の中にあって青松寺は森閑としています。いかにも禅寺という趣です。由緒によれば1476年開創、1600年にこの地に移転。以来長くここで地域を支え続けて来たのでしょう。発願のことばに、今もなお都会の真ん中にありながらも人々によりそえる寺でありたい、とあるように写経会や参禅会などの活動が行われていることにその真摯な姿勢を感じます。空気が澄んでいて気持ちの良い境内です。正面が本堂でしょうか。どっしりとしています。手入れが行き届いていて、その静謐な佇まいは今も祈る人たちのためにこの寺が存在していることを無言で伝えています。拝礼して青松寺を後にしました。

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青松寺

青松寺を出て左へ進み、愛宕神社前の交差点を過ぎると左手に少し奥まってどんと赤い大鳥居が見えます。両脇に愛宕神社の提灯が下がり、左には「出世の石段」の案内板があります。

青松寺では内面の葛藤に向かい、内なる世界から生きる道を探る仏教のありかたを感じましたが、この愛宕神社の赤い鳥居と急階段を見ていると、八百万の事象に人知の及ばない大きな力を畏れ、実際に生きた人々の功績を敬う神道のありかたを感じます。あらためて日本人がいろいろな考え方を受け入れ、混然と無理なく文化を形成してきたことに気づかされます。

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愛宕神社鳥居

愛宕神社主祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)。家康によって江戸の防火の神様として祀られということです。ここにも家康の都市計画が生き続けています。この愛宕山は23区内では一番高い自然山だそうです。両脇には木々がおい茂り、かつての姿を髣髴とさせます。

山上のお社に参拝するための急な石段はこつごつして古く、普通に登るのも楽ではありません。放送博物館のエレベーターや裏の車道で上まで行くことはできるようですが、せっかくですからここを登ってみようと思います。出世の石段の謂われは第3代将軍家光の従者曲垣平九郎がこの石段を馬で駆け上がり、山上の梅の枝を家光に献上したことから、その勇気と馬術の技を称えられ名を挙げたという逸話です。努力し、鍛錬した力をいかんなく発揮するためにちょっとした運の後押しを願って多くの人々がこの魅力的なネーミングの石段に引きつけられるのもわかる気がします。

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出世の石段

ふうふう言いながら石段を上ると、池のある境内には昼時のビジネスパーソンと思われる人たちや参拝客が散策したりベンチに座ったりしています。木々に囲まれたこの場所で昼休みに息抜きができるなんて羨ましい限りです。一の鳥居をくぐると本殿の前に赤い門が見えます。参拝客の列に並び、進みながら左側にある福を呼ぶ招き石を撫で、本殿で手を合わせ、右側に進んで社務所御朱印を頂きました。

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愛宕神社御朱印

御朱印散歩 東京編 田町駅発~国会議事堂ルート⑤へ続きます

 

御朱印散歩 東京編 芝大神宮へ 田町駅発~国会議事堂ルート③

御朱印散歩 東京編 田町駅発~国会議事堂ルート②から続きます 

③芝大神宮の御朱印目指して

大門から芝大神宮へ

今度は三解脱門の前を通り過ぎて日比谷通りを北方向へ。増上寺前の交差点をJR浜松町方向へ曲がると朱色の門柱に屋根のある立派な大門が見えます。かつての増上寺総門です。門の銘板には江戸名所図会や広重の錦絵が描かれています。近くには和風の屋根つきの公衆トイレがあってなごみます。残念ながら清掃中で中を確認するのは遠慮しました。

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大門

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芝大門公衆トイレ

大門の交差点を浜松町の駅に向かって左折すると右側に芝大神宮方面の通路があります。ビル(芝大神宮の1階部分)の脇を通るとビルの真裏にあたる側に芝大神宮の鳥居と階段が見えてきます。階段の反対側に振り返ると第一京浜方面に伸びる真っすぐで広い道路があります。こちらが表参道になるのでしょうか。

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芝大神宮の鳥居越しにみる参道

芝大神宮は東京十社の一つ。ご祭神は天照大御神豊受大御神増上寺とも近く、江戸時代には地域の守護のみならず幕府からの祈願を受け、また旅人にとっては江戸市中と市外の境界線である金杉橋の近くであることから道中安全祈願とその御礼として立ち寄る場所としてにぎわったそうです。お伊勢様と同じご祭神のため関東のお伊勢様としてお陰参りなどの参拝客もたくさん訪れたようです。この辺りはもともと生姜畑であったことから生姜市が立ち、今もだらだら祭りの授与品として生姜が配られるそうです。

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芝神明宮祭礼生姜市之景

境内は相撲興行などが行われたそうです。有名な火消し、め組の辰五郎親分ほかと力士九竜山たちの大喧嘩の逸話がありますが、門前町は相当な活気に満ちていたと思われます。このあたりには地本問屋が店を構え、草双紙、絵本、錦絵などがここで配られ、近隣の住民も旅人や参詣者も、娯楽を求めて集まる繁華街であったことが伺えます。由緒によれば1005年、一条天皇の御代にお伊勢様の内外両宮を勧進し、創建されたとあります。当初は武蔵野の山の中でひっそりとしていたであろうこのお社は以降鎌倉、室町、戦乱の世もずっと武士からの崇敬が続き、徳川の時代になってこの場所に移転、増上寺の隆盛とともに大いににぎわったことでしょう。その後幾度かの焼失、再建を経て1000年以上も鎮座し、この地域の変遷と訪れる人々を見守り続けて来たのですね。感謝の参拝をし、御朱印を頂きました。

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芝大神宮御朱印

御朱印散歩 東京編 田町駅発~国会議事堂ルート④へ続きます。

 

御朱印散歩 東京編 増上寺へ 田町駅発~国会議事堂ルート②

御朱印散歩 東京編 田町駅~国会議事堂ルート① から続きます。

増上寺御朱印目指して

東京タワーと徳川将軍家菩提寺増上寺

東照宮を後にし、すぐ隣の見通しの良い公園へ。両脇に神社仏閣、背景に東京タワーがそびえたつ広い公園には小学生たちが遠足に来ていました。売店やお手洗いも完備されています。

昭和の高度成長期を象徴する東京タワーも本来の役割を東京スカイツリーにバトンタッチしましたが、その雄姿は今も健在です。これもまた時代の変遷を物語る偉大なモニュメントです。

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東京タワー

公園を過ぎると増上寺です。家康が江戸に拠点を置く際、菩提寺に選んだのが増上寺だそうです。家、城、地域の守護に寺社や神社の存在がなくてはならない時代。どんなに有能な武将も道に迷い、葛藤し、教えを請い、人知を超えた力の存在を怖れ、あるいは拠りどころとしていたのでしょうか。徳川将軍家の篤い庇護を得て江戸期の増上寺は隆盛を極めたようです。

古地図アプリを見ると増上寺とそれに関する施設(学寮など)の占める範囲は広大で、江戸名所図会には増上寺の寺領内部の建物配置が詳細に描かれ、広重の錦絵にはその周辺の賑わいが生き生きと描かれています。 浄土宗の大寺院として檀林がおかれ、最盛期にはなんと3000人以上の学僧がいたそうです。

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芝神明増上寺全図 / 広重

明治になって神仏分離令廃仏毀釈の影響を受け、まさかの放火に会うなどとは江戸期の人たちは想像だにしなかったでしょう。

三解脱門をくぐると正面に大殿があります。ご本尊は室町期の阿弥陀如来像です。由緒によると、三門をくぐり煩悩を解脱してご本尊のいる大殿、西方極楽浄土に至る世界を視覚的に表現しているとあります。どっしりとした景観を誇る大殿は広々としてしていて、地上3階、地下一階の構造になっており、多くの信徒や参拝客を受け入れることが出来る施設になっているようです。          

                 

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増上寺大殿

隣は安国殿です。この安国殿は戦争で焼失した大殿を再建するまでの仮本堂であったものを本殿完成後北側に移築し、その後立て直されたものだそうです。もともとの安国殿は先ほど参拝した東照宮として分離されたので、こちらの建物を新たに御堂安国殿としたそうです。本尊は秘仏黒本尊。家康が崇拝したこの像は恵心僧都作と伝えられ、勝運、災難除けの仏様だそうです。香煙や人々の悪事災難を受け止めて黒ずんだという黒本尊は家康のが命名したもの、と由緒にあります。家康の祈りが込められた像に敬意を表して参拝し、堂内の社務所御朱印を頂きました。

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増上寺御朱印

増上寺は見所がたくさんありますが、やはり徳川家の菩提寺であることから墓所の見学は必須です。靖国殿の裏側に回ると一面の葵のご紋と両脇の龍の彫り物が見事な鋳抜門に圧倒されます。拝観料を払って門の脇から中に入ると徳川家の将軍や正室・側室の宝塔が並んでいます。もともとは大殿の両側に国宝として霊廟が立ち並んでおり、戦火で焼失後荒廃していたものを発掘調査してここに改葬されたとあります。本来の姿はどのようなものだったのか、焼失してしまったことは残念でなりません。

幕末、公武合体によって徳川に嫁いできた皇女和宮もここに眠っています。16歳で家茂に嫁ぎ、たった4年余りの結婚生活。家茂の没後出家し、徳川家支配の終焉、明治維新と以後の混とんとした激動の11年余りを過ごし、32歳という若さで亡くなった和宮が、家茂と同じ墓所に眠ることを選んだ心情は計り知れません。

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増上寺鋳抜門

増上寺の境内を散策し、寺の裏側から外に出ると薔薇の咲く高台の公園に抜けられます。空を見上げれば大都会の東京タワー。下方に目を移せば先ほど通った広々とした公園があります。公園と増上寺の間には広くて新しい階段があり、ここを下りると東照宮から増上寺に向かって歩いた先ほどの道に出ました。

御朱印散歩 東京編 田町駅発~国会議事堂ルート③ へ続きます。